どうも離人症です。

「離人症」のなんてことない日記をつらつらと…。 私が離人症という言葉を知ったとき、離人症に関するブログや本にはなかなか出会えませんでした。私のように同じ症状の人を探している人の励みになればなと思います。

終わった今日と来なかった明日。

自殺

今回は離人とは離れた話となります。先日のある少年の飛び降り自殺の報道。私はこの1週間、そのニュースによって例えようもない感情に呑まれました。皆さんはあの報道を見て何を感じたのでしょうか。

 

飛び降りニュース

先日、ビルから飛び降り自殺した人のニュースが流れてきました。さらに悲劇は連鎖し無関係のビル下を歩いていた女子学生に衝突。昨日、女子学生もなくなったとニュースを聞きました。

 

母はニュースをみて言いました。

 

「自殺するなら、最後ぐらい迷惑をかけず山奥ですればいいのに。」

 

この発言が間違いだとは思えません。母がまったく自殺者の心情を無視して発言しているのではないと知っているからです。かといって私には肯定することもできませんでした。

 

私より年下のこれから無限の可能性がある高校生。そんな彼は何を思い高い高いビルから飛んだのでしょうか。

こんな現状に飽き飽きしたのか、進路で行き詰ったのか、家庭の問題があったのか、友人間で何かあったのか、それとももっとほかのことなのか。まったくの想像がつきません。想像したところでそれは赤の他人の単なる想像でしかないのです。

 

最後の瞬間、彼は何を思ったのか。

夜、人で賑わう都会の高層ビル屋上。ただ確かなことは、そこはきっと底冷えする秋風が吹いていたということ。それだけではないでしょうか。

 

人が死を恐れる理由。それは”死”そのものではないのではと私は思います。人間が死を恐れる理由、それは”明日が来ない”という2次的な結果ではないだろうかと思うのです。誰もが当たり前すぎて疑うことすらしない明日。明日どころか明後日、来週、来月、来年、はたまた10年後。そんな不確かな疑いもしない未来が来ない。朝、目を覚ますことがない。永遠の眠り。それこそが人が恐れる”死”なのではないかと思うのです。

 

しかし、彼は飛んだのです。

 

どれほどの真っ暗闇の未来を突きつけられれば人は飛ぶのでしょうか。

飛んだ先に何を望んだのでしょうか。

 

飛び降りに巻き込まれ亡くなった私と同い年の彼女。

彼女はいったいあの日何のためにそこを訪れたのでしょう。友達とショッピングに訪れたのでしょうか。家族と出かけたのでしょうか。大切な人へのプレゼントを買いに出かけたのでしょうか。それとも日ごろの勉学の息抜きに一人でぶらっと訪れたのでしょうか。

明日、彼女は生きていたのです。それは確かな未来だったはずなのです。しかし、彼女に明日はやってきませんでした。

 

では、飛び降りた彼を責めなければならないのでしょうか。私の大切な人が巻き込まれれば私は彼を一生恨むでしょう。悔しくて、悲しくて、憎くて仕方がないでしょう。

しかし、私は彼とも彼女とも面識がないのです。

 

一通りニュースに目を通し終えた私が感じたこと、それは

 

「私、私の知人ではなくてよかった。」

 

飛び降りた彼の遺族、友人。亡くなった彼女の遺族、友人。

私には彼らの心情は微塵も理解ができません。理解しようとしてはいけないような気がします。だって私は大切な人を亡くしたことがないのですから。私はその悲しみから目を背けることしかできないのです。

 

ただ、私に降りかからなくてよかった。そう安堵する私はなんて浅はかな人間なのだろうとただ悲しくなったのです。

 

全てを断ち切る最後の手段

自殺とは最後の手段なのです。

 

それをしてしまえばもう後は何もないのです。

後悔も失望も期待も何もないのです。

 

飛び降り自殺をすれば、人のいない山奥でやれと人は言います。

飛び込み自殺をすれば、どれだけ迷惑なのかわかってないのかと人は言います。

首吊り自殺をすれば、後処理をする人や大家がかわいそうだと人は言います。

 

その通りです。

死ねば必ず、大きかれ小さかれその被害、手間を被る人が出るのです。例外とえば、人知れず樹海に行くか海に入水するかぐらいではないでしょうか。

そんなこと誰にだってわかるのです。

 

しかし。

 

全てを投げ捨てることを決めた、そうすることしか残されなかった人たちにとってそんなことはどうでもいいことなのです。

だって確かな当たり前の”明日”は来ないのですから。

 

責任、重圧、人の目、後悔、義務、社会、自分、過去、現在、未来。

それらすべてを詰め込んで投げ捨てる。すべてを断ち切る最後の手段。それが自殺なのです。

 

だから、迷惑だの無責任だの彼ら、彼女らに言うことは間違っているように私は感じるのです。

 

唯一の、何億年の果ての奇跡かはたまたまぐれかに生まれた同じ命なのです。

 

それを選び己の人生に幕を下ろした彼にそんな野次を投げるのではなくどうか安らかに、と祈ってはいけないのでしょうか。

そんなことを思える私はやはり浅はかな人間なのでしょうか。

身を投げた彼、それに巻き込まれた彼女に対してこんなことを考えてしまう私はきっと愚かで馬鹿な人間なのでしょう。

事件から数日、気持ちを沈ませながらも心の奥底で私はきっと他人事だからとこんなことをぐるぐると考えていたのでしょう。